三橋 美智也(みはし みちや)、本名・北沢 美智也[1]、1930年11月10日 – 1996年1月8日)は日本の演歌歌手。北海道上磯郡上磯町峨朗(現・北斗市)生まれ、函館市育ち。愛称「ミッチー」。
「歌謡界の重鎮」とも呼ばれ、民謡で鍛えられた伸びと艶のある美声で、春日八郎・三波春夫・村田英雄らとともに歌謡界をリードしてきました。ヒット曲を連発し、全盛期には「三橋で明けて三橋で暮れる」と言われるほどの人気。キングレコードの全盛期を春日・若原一郎と共に築き上げ、「キング三羽カラス」「三人男」とも呼ばれました。
★三橋美智也の一度は聴いておきたい有名曲
- おんな船頭唄
- あゝ新撰組
- あの娘が泣いてる波止場
- リンゴ村から
- 哀愁列車
- 母恋吹雪
- 一本刀土俵入り
- おさげと花と地蔵さんと
- 夕焼けとんび
- 赤い夕陽の故郷
- 古城
- 快傑ハリマオの歌
- 達者でナ
- 武田節
- 石狩川悲歌
- 星屑の町
- 流れ星だよ
- 東京五輪音頭
- 二本松少年隊
★華やかな歌謡界への貢献とは裏腹の私生活と晩年
私生活では一子をもうけた糟糠の妻・喜久子と1966年に離婚(この出来事がきっかけで『NHK紅白歌合戦』に落選したと言われている)。その後に再婚し、二人の子宝にも恵まれるも、晩年は啓子夫人からの家庭内暴力(馬乗りで殴られる等)や財産乗っ取り(妻と娘と娘婿が共謀して、ゴルフ場の高級会員権を三橋に無断で売却したほか、三橋が加入していた保険を解約して給付金を全て使ってしまう等)に苦しみ、1994年からは東京都世田谷区南烏山の自宅を出て、大阪の二條弘子マネージャー宅で暮らしていた(妻との離婚については亡くなる2年前より民事裁判で争われ、裁判の結果、三橋が倒れる直前に離婚が成立し、翌年春にはマネージャーと再々婚の予定だったが、三橋が突然倒れ、死去したため再々婚は果たせなかった)。また、1992年に名義貸しをしていた熱海のホテル「サン三橋」が倒産し、数億円の負債を抱えたこともあるなど、輝かしい功績とは相反するものがあった。
私生活での心労が重なったこともあって持病の糖尿病が悪化し、晩年は声の衰えを隠せず、また薬の副作用等により脱毛が酷く、それを隠すためにカツラも使っており、かつての恰幅のよさも無くなっていた。このことについて、三橋と親交が深かった落語家の立川談志は「もっと年齢相応に(キーを下げたり)しても良かったのでは」と著書に記している。
1995年10月26日午後18時35分頃、滋賀県甲賀郡信楽町の「タラオカントリークラブ」での帰路、走行中のタクシー車内で心臓発作を起こし、西成区岸里の「山本第一病院」に入院。その後は阿倍野区旭町の大阪市立大学医学部附属病院に転院したが、1996年1月8日午前11時30分、意識が戻ることなく多臓器不全のため亡くなった。享年65。2日後の1月10日に通夜が、翌1月11日に密葬・告別式が西成区玉出の「光福寺」で取り行われた。法名は妙聲院釋智誠大居士(みょうしょういんしゃくちじょうだいこじ)。その後、2月5日には青山葬儀所で音楽葬が行われ、約2000人が列席。献唱曲は自身の大ヒット曲である「古城」だった。現在は墓所が2つあり、小平霊園と東大阪市の石切霊園。
一説によると、最初から医療設備の整った大阪市立大学医学部附属病院に運ばれて治療を受けていれば、死なずに助かったともいわれている。